うっすらと夕闇が世界を満たす中、陽子は明かりに照らされた勉強部屋にいた。
これまでの学習期間、陽子は本気で勉学に勤しんでいた。
陽子はこちらで云百年過ごした記憶があり、陽子とこちらの常識に世界の隔たりはない。
だがしかし。
世界の隔たりは無いが、時間の隔たりが大いにあったため、すでに陽子の記憶する法令や政治体勢、文字は全く通用しなかった。
云百年すれば法令はたびたび書き換えられ、政治体制もそれに合わせ変化し、文字も独自に進化していくものだ。
そもそも陽子は奇抜なアイディアと優秀な官吏の補佐を得て、慶をより発展させることに尽力していたのだ。
その変化は計り知れず大きい。
そしていくら記憶力の優れた人間であろうとも、己の人生全てを記憶しているわけではないし、大昔の記憶は薄れていくものだ。
陽子は己の記憶の中で絶えず取捨選択を繰り返し、必要のない記憶はバッサリ切り捨てることで長い時を生き抜いた。
全く覚えていないとは言わないが、当極直後の法令・政治体制・文化・文字諸々のことを完璧に覚えているかと言えばかなり怪しい。
陽子がソレに気付いたのは楽俊と巧を旅している時であり(露店にある文字を見て固まった)、陽子は周囲の目を総無視して大絶叫した。
(『オーマイゴッド!! 学生期間再びー!?(涙声)』と言う悲痛な大声が楽俊の耳を遠慮無く攻撃した)
確かに一度覚えていたモノを思い出すだけでいいので前回よりは楽なのかもしれないが。
私もうおばあちゃんだよ? この世界の誰よりもご高齢で疲れ切った脳をしてるんだよ?
(いや、この身体は若々しいかもしれないけど)
なんでまた勉強? どうしてまた学習?? マジイミワカンネー(泣)
そんな心の声を悟らせずに、陽子は必死に三公とのお勉強会を耐え抜いた。
こっそり寝所でそれ以上に高度な書物を乱読しているのは秘密だ。
しかし溜まった鬱憤を読書に当てて効率よく憂さを晴らそうとして、逆に巫山戯た書簡にイライラを溜めているというまさに最悪の悪循環が生まれてしまっている。
(使令たちがこっそり取ってきては陽子に渡しているのだ。もちろん他言禁止を厳命して)
すでに陽子の知らぬ法令はこの国に存在しない(ただし金波宮に所蔵されているものに限る)
そして陽子のリミッターが切れる日も近い(景麒が胃痛持ちになる日も近い)
陽子が学んだ知識を語り、間違えることなく言い終えると、太師が笑顔と共に柔らかな声で陽子を賞賛した。
「すっかり学ばれたご様子」
掛け軸をはさんで太師の隣に立つ太傅は満面の笑みを浮かべ、太保もにこやかな様子だ。
三公に対面して席に着いていた陽子はさらに言葉を続けた。
「だが、分からないことがある」
その言葉に、三公は問いかけるような眼差しを向け若干前かがみになった。
「冢宰、つまり今は靖共が勤めているが、私には天官長や春官長と不仲のように見える」
「「「!」」」
陽子の言葉を聞き、三公は驚いてうめき声のようなものを洩らした。
それを見ても陽子は変わらず言葉を続けた。
「冢宰は六官の長、最も政務に長けているはずだ。なのになぜ殊更に逆らう者がある?」
陽子は一度言葉を切ると、ちらりと視線を周囲に向け、今度は三公に聞こえるぎりぎりの小さな声で囁いた。
「意見が2つに分かれるとは、慶の官吏は本当に分かりやすいな。可愛いものだ」
「主上……?」
ニコリと純真な笑みで言う言葉の内容は、かなり大物の意見だった。
驚く三公が正気を取り戻す前に、陽子はまたがらりと纏う雰囲気を変えると、弱弱しい声で呟いた。
「私はみなの意見を公平に聞いているつもりだが、やはり冢宰が一番頼りになるな」
弱弱しい声なのになぜか室内に響く声だった。
三公が陽子の変化についていけずに戸惑いの表情を浮かべていると、部屋の外からかけられる声があった。
「主上、お時間にございます」
「分かった」
陽子は立ち上がりすぐに扉のほうに向かった。
「ああ、次の講義は外で行いたいな。外の空気が気持ちがいいからな」
女王の暗躍は翻弄の嵐
「これまですまなかった。貴方たちの人柄を把握するまでは、どうしても話せないことだったんだ」
三公は落ち着いた様子だが不思議そうに陽子を見ていた。
4人が腰掛けているのは外に設けられた所だった。
切り立った山頂にある小さな庭園のような場所の中央にあり、この庭園に出入りするためには用意された階段から入るというたった一つしか方法がない。
――誰の耳も気にせず話が出来る場所だ。
「麦州候に関して、私の裁量が誤っていたことは分かっている。その他の施政においても冢宰の意見を重用していることもな」
三公は驚いた表情をしていたが、口を挟むことはなかった。
陽子を興味深そうな眼差しで見つめている。
「申し訳ないがもう少しの間、私の異質な行動が目立つだろう。どうか、耐えてくれ」
陽子は一度ゆっくりと目を閉じ、カッと目を見開くと力強い笑みを浮かべて言った。
その瞳に宿るのは、燦然と輝く王者の光。
「そして、私に手を貸して欲しい。官吏の大掃除だ!」
まるで簡単なことのように放たれた一言は、今の状況からは大それた一言なのに。
なぜだろう、これから起こる事を最も簡潔に表している言葉ではないかと思われた。
三公はそろってその場で一礼したのだった。
いや、三公の人柄を知るのに陽子なら2月も必要ないとは思います。
それでもやはり、慎重に選んだ結果と、話す場所を優先した結果だということに……(逃)
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