「? 恵菜?」
突然腕の中で自身に身体を預けてきた妹に、跡部は不思議そうに呟いた。
長年の壁をぶち壊し、お互いに微笑み合うことが出来た跡部は幸せの絶頂にいた。
まぁシスコンが報われた瞬間だしね。
レギュラー陣は誰かと間違われていたようだが、自分は『景吾お兄ちゃん』と呼ばれたことは跡部のメモリアルにしっかり保存されていた。
それはさておき。
「! 恵菜!!」
不審に思い恵菜の顔を覗き込んだ跡部は叫んだ。
恵菜は跡部の腕の中でくたりと力をなくし、意識を失っているようだ。
「――様!」
「どこにいらっしゃいますかー!?」
「あ――景吾様」
「景吾様!」
「景吾お坊ちゃま!!」
そこに跡部邸の方から走ってきたのか、息を切らせたメイドや執事たちがやって来た。
何かを探している様子だったが、跡部を見てこちらに来ることにしたらしい。
すでにレギュラー陣はあっけにとられてその場を見ていることしかできない。
度重なる精神攻撃にちょっと疲れていたのかもしれない。
急いで跡部の近くに来たメイド・執事一行は息つく暇もなく跡部に問いかけた。
「景吾様、お嬢様をお見かけしませんでしたか!?」
「少し目を離した隙に逃げら――恵菜お嬢様!!」
「え……あ、お嬢様!?」
「あ! 恵菜お嬢様!」
おーい!お嬢様が見つかったぞー!!
跡部は背中を向けていたため、その腕の中にいる恵菜には今気づいたようである。
それを見たある一人の執事が叫びながら他の者たちのもとへ向かった。
その場に残った者たちは皆一様に安堵の息をついている。
しかし彼らは次第に、いつもと跡部の様子が違うことに気がついた。
そして跡部の腕の中に恵菜がいるということは、日頃の様子からではありえないことだと思い至った。
「景吾様? どうかなさい――」
「おい! 今すぐ車を用意しろ!!」
心配そうに話しかけたメイドを無視し、いきなり立ち上がった跡部はそう叫んだ。
腕の中には意識を失った恵菜がいる。
その様子を見て跡部の言葉の意味を理解した者たちは、皆困惑した表情をしている。
「おい、聞こえなかったのか! すぐに車の――」
「その必要はありません」
「……お前は……」
主君とも言える跡部の言葉に反論したのは、見慣れない顔のメイドだった。
しっかりと跡部を見据えて言ってきた彼女に、跡部は不審そうな顔を隠しもしなかった。
なぜなら、普通のメイドはこんな風に主の命に逆らうようなことを言ったりしないからだ。
だからこそ他の者たちは困惑した表情をしつつも、何も言い出せなかったのに。
「私は恵菜様付きのメイド長をしております、白鳥と申します」
「――! お前が……」
跡部は今の状況をしばし忘れ、目の前の凛然としたメイドを見つめた。
この白鳥という女は、いつのまにか恵菜付きのメイドになっており、気づいたら恵菜付きのメイドたちを完全に掌握していた。
父や祖父など他の誰かが恵菜の様子を窺うために送り込んだメイドたちに一切情報を与えることはなく、逆に情報を聞き出されたこともあるという噂は跡部の耳にも入っていた。
また、そのメイド自身の情報も全く漏らすことがなく、ただメイド長であるということだけが知られていた。
そしていつのまにか恵菜を守る双璧の一人として有名になっていた。
(もちろんもう一人はあの人)
まさかこんなに若い者だとは思っていなかったが、周りの者の様子を見ると嘘ではないようだ。
恵菜付きのメイドをしているのならば、自分よりも判断は正しいだろう、と跡部は不機嫌そうに納得した。
その様子を見て取った白鳥は、隣のいる執事に話しかけた。
その者がこの場にいる側使えの中で最も位が高かった。
「恵菜様を部屋にお連れします」
「それでは私が――」
「いや、いい。俺が運ぶ」
恵菜を受け取ろうとした執事の言葉を遮り、跡部は恵菜を腕にしたまま立ち上がった。
白鳥は一瞬面白そうな光を目に走らせたが、すでにその表情はメイドのものだ。
「こちらです」
「おい、お前らはもう戻れ」
先導するように歩き出した白鳥に、跡部は周りの者たちにそう言ってからついて行った。
その腕にはしっかりと恵菜が抱えられている。
その場にいた執事とメイドたちは跡部の言葉に従い、それぞれの場所に戻っていった。
「……おい、俺たちはどうすりゃいいんだ?」
レギュラー陣を代表して宍戸が呟いた。
忍足はいつもの表情に戻って何かを思案しているし、その近くにいる2年生コンビはまだ復活までに時間がかかりそうだ。
ジローはこれ幸いとばかりに夢の中にいる。
樺地はハッと思い出したかのようになぜかまた向日を拘束していて、向日はもう抵抗は諦めたようにだら〜っとしてる。
ほんと、それでいいのか氷帝学園。
「つまり、このケーキが原因だと?」
「……はい」
恥ずかしそうに俯く恵菜を見て跡部はため息。
まさかあの騒動の原因がこんな見た目は普通のケーキにあるとは到底思えない。
しかもこのケーキを作ったのが恵菜自身であるというのだから、もうどこからつっこめばいいのか分からなかった。
跡部を部屋まで連れてきた白鳥は 『では、あとは目を覚ました恵菜様にお聞きください』と言ってくるりと踵を返して颯爽と去っていった。
跡部が止める暇もなかった。
とりあえず跡部は恵菜をベッドに寝かせた。
そしてそういえば、と思い出したように部屋の外にいた執事にテニス部のことを指示した。
思い出してもらえて良かったね。
部屋に戻った跡部はうろうろしたり、恵菜を覗き込んだり、窓の外を見たりと、とりあえず帝王にあるまじき姿を曝しながら恵菜の目覚めを待ったのだった。
「お前の身体に害はないのか」
「はい、大丈夫です」
恵菜はベッドに身体を起こした状態で座っており、恥ずかしそうに俯いている。
跡部は離れたソファに腰掛け、目の前のテーブルの上のケーキから恵菜へ視線を動かした。
跡部にとって、ここからが本題だ。
跡部は(内心気合を入れて)恵菜を見つめた。
その視線に気づいた恵菜も、跡部に目を合わせてきた。
「恵菜、俺はお前の中に隠れているものが何なのか知りたかった」
「……うん」
唐突に言い出した跡部に、恵菜は一瞬目を見開いたがすぐにまた静かな表情に戻して頷いた。
そんな気はしていたが、気づかないふりをしていた。
恵菜の抱えているものは、隠し切れないほど大きく、曝け出せるほど浅いものではなかったのだ。
「それでお前が勘違いをしていたのは知っていた」
「え、勘違い?」
「恵菜、なんで別邸に引っ越したんだ?」
「あ、えっと……」
「俺に疎まれていると、そう思ったからじゃないのか」
「それは……」
確かに、そうだったのかもしれない。
慣れない家族、信用できるのかどうか分からないたくさんの人間、ざわざわと気配がうるさい跡部邸は、次第に息苦しくなっていた。
だから離れて遠くから想っていることを選んだ。
共有する喜びより離れて想うことのほうが、自分には慣れたことだった。
恵菜にとって家族とは、手の届かないものの象徴だったのかもしれない。
身近な兄の刺すような視線に気づかないふりをして、また全てを諦めた。
「そんなわけ、ねぇだろ」
「え?」
いきなり立ち上がった跡部は優雅に恵菜の方に歩いてきた。
恵菜は、その跡部の表情がいつもと違って穏やかなのに気がついた。
さっき『恵菜』と呼ばれたことといい、兄の中で何か変化が起きているようだ。
(ある時から、兄から名前を呼ばれなくなってしまったことには気づいていた)
しかし、一体何があったのだろう?
一瞬別のことに気をとられているうちに、気づいたらこの体勢だった。
恵菜は、そっと跡部に抱き寄せられていた。
跡部がベッドの端に腰掛け、恵菜の背中と腰に腕を回し、抱き寄せている。
恵菜は驚きに目を丸くし、動くことが出来なかった。
そんな恵菜の状態を知ってか知らずか、跡部はそっと恵菜の耳にその美しい唇を寄せた。
「愛している」
たった一人の妹。大切な女の子。
悲しい時も苦しい時も、いつもそっと側にいてくれた。
嬉しい時も楽しい時も、いつも一緒に笑ってくれた。
どんな時も一番に気づいてくれるのは、この少女だった。
何よりも誰よりも大切にしたかったのに、傷つけてしまっていた。
でも、これからは――
「これからはずっと共に居よう。悲しい思いをさせて、悪かったな」
そう言って跡部はそっと恵菜を離した。
しかしいきなり予想外の愛の告白に恵菜は思考停止状態に陥っていた。
それはもう見ているこっちが可哀想になるくらい真っ赤な顔をして。
ああああああぃ、あい?あ、い!?
ななななななななななな……!!!!
恵菜は、ぱくぱくと口を動かしながらも視線をうろうろと彷徨わせている。
いつもは自分が衝撃を与える側の恵菜は、衝撃を与えられるのにはとても弱かった。
そんな様子の恵菜を見て、大変満足そうな跡部はニヤリと笑った。
「恵菜」
「――!?」
聞こえてきた甘い声に恵菜はビクン!と衝撃に身体を揺らすが、跡部はお構いなしだった。
跡部は恵菜の頬を両手で包むと、掠れた声で囁いた。
「お前は、どうだ?」
「……」
恵菜は、兄がニヤリと意地の悪そうな笑顔を浮かべながらも、目の奥にひっそりと恐れを宿していることに気がついた。
それは見慣れた目だった。
あちらでは、姉はいつも笑顔を浮かべながら目の奥に弟を失う恐怖を宿していた。
(あちらでの失うとは死別のことであったのだが)
この兄の瞳には、恵菜に決別され、自身が恵菜を失うことへの恐怖が隠れていた。
恵菜の意識は急速に現実に戻ってきた。
今度は恵菜のほうから跡部に近寄り、その背中にそっと両手を回し、ぎゅーっと抱きついた。
(多少驚かされた怨みもこもっている)
そして耳元に唇を寄せて囁いた。
「大好きだよ」
愛なんて知らない。まだ分からない。
でもこれが最上級の私の、僕の、愛の言葉。
本当は諦めたくなかった。
大切に仕舞ってあった、大切な想い。
そっとお互いに身体を離す。
お互いを見つめ、同時に微笑み合った。
それは、仲直りの微笑。
おまけ↓
「な、に……?何も覚えていない?」
「うん。これを食べて混乱している間の記憶はなくなっちゃうの」
「……」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや……」
「お兄ちゃんも食べてみる?味は保証するよ!」
「いや、いい(即答)」
「……おい、なんでそれを包んでるんだ(処分するんじゃないのか?)」
「ああ、これね。実験で食べてもらうために作ったんだよ」
「実験だと?」
「うん。友だちが『食べさせてみたい人がいる!』って言うから」
「……それは、まだ作れるのか?何か特別な材料が必要なのか?」
「うん、いっぱい作れるよ! 特別な材料はいらないけど、私にしか作れないと思う」
「……(恵菜の手料理か……いや、しかし……だが……)」
「どうしたの?」
「いや、なんでもねぇ」
面白いことを思いついたようにニヤリと笑う跡部。
恵菜は不思議そうに見ていた。
←
■
→