リオウは手にかかる重みをゆっくりと下ろしていき、そっと手を引いた。
そして目の前の光景を見て、一人うんうんと頷いた。
眼下には艶やかな黒髪が広がり、その下から安らかな寝息が聞こえている。
リオウの左手の甲は残り火のようにぼんやりと光を放っている――その色は透けるような薄い緑。
(いわゆる完全犯罪?)

満足げな表情を浮かべたリオウ――それでもやっぱり基本は無表情――は、身体を反転させると静かに部屋の扉に向かった。
いつも通り足音を消した移動だったが、今回はさらに注意を重ねている丁寧な足運びだ。
扉の取っ手に手をかけてからも丁寧な動きは変わらず、音を立てずにゆっくりと扉を閉めた。
その場でキョロキョロと周りを見渡した後、通路の先の曲がり角で視線を止めた。
そこからは顔と手がにょっきりと生えており、向こうもリオウに気付いた様子で手をパタパタと振り出した。
その動きに声をつけるならこんな感じだろう。

「(リオウ、こっちこっち)」

果たしてリオウがその場所まで向かうと、その場にはナナミ、アップル、クラウス、ビクトール、フリック、そしてルックというそうそうたるメンバーが揃っていた。

「で、どうだった?」

さっそく話し出したナナミに、他のメンバー(−1)も興味津々にリオウを見つめた。
ちなみに(−1)は相変わらずそっぽを向いている。
リオウは無言で頷いた。
しかし、すでに彼らの中でリオウの無表情を見極められない者はおらず、リオウがかなり満足そうな様子であることは皆に伝わった。
リオウの返事を見て、一番喜んだのはアップルだった。

「よかった!」

「私も安心しました」

隣でクラウスも安堵の吐息を溢している。
そして、彼らの言葉を聞いて得意げな表情をしたのはリオウではなくナナミだった。

「ほらほら、私の言ったとおりだったでしょ? リオウなら大丈夫だと思ったもん」

「しっかし、まさかシュウがこんな手に嵌るとな〜」

「確かに。策には強いと思ったんだけどな」

「どうせ油断してたんだろ」

ナナミはみんなの方を向いてえっへんと胸を張っている。
ビクトールとフリックは笑いながら言葉を返しているが、ルックはやっぱり不満げな表情をしている。
面白半分に石版の前から連れ出され、いつも以上に不機嫌な様子である。
連れ出してさらに引き摺ってきたのはもちろん、同盟軍では天下無敵のナナミ嬢だ。
ひとしきり笑いあった後、大きい青年2人組が立ち上がった。

「よし。それじゃ、ここから先は俺たちの出番だな」

「お前一人で事足りるだろ」

「おいおい、せっかくここまで来たんだからしっかり手伝って行けよ」

「分かっているさ。お前と一緒にするな」


「……それじゃ、僕はもう戻るから」


「え、ダメダメ! ルックにも手伝って貰いたいことがあるんだよ!」

引き留める人間が少なくなったことで、こっそり帰ろうとしていたルックの思惑は最大の敵の前で敗れた。
ルックにとってビクトール(面白がる人)とフリック(宥める人)は鬱陶しい敵だが、ナナミ(全力な人――何が全力かはご想像にお任せ)が一番困る敵なのである。
彼女自身も強敵だが、背後に控える者の存在も大きい……らしい。
だったら無言で消えてしまえばいい(魔術的な意味で)と思うかも知れないが、過去にそれを実行した際、憤慨したナナミが大量の手料理を持って現れたことを忘れてはならない。
本人は『罰として創作料理の試食に付き合ってよ!』と言っていたが、レシピ通りの料理でさえ大量殺人レベルなのに創作なんてしたら世界滅亡レベルに達するのではないか……と聞いた全員が心の中で思ったのは本人には秘密である。
そしてコレこそ、ナナミが同盟軍で最強の座に居続ける理由なのかもしれない。

ナナミに引き留められたことで足を止めざるを得なかったルックは、浮かない表情で背後を振り返った。
すでに高速で歩き出していた彼は、一団から5歩ほど離れた位置(結構遠い)に立っていたが、それも話しながら歩くナナミに詰められた。
チェックメイト★

「ルックって凄い魔術師なんだよね? シュウさんをフワーッと浮かしてビューンと運んだり――」

「出来ない。それが頼みなら帰るよ」

「あはは、冗談だよ! じゃ、行こっか」

「……」

ナナミほどあっさりとルックを扱う(操る?)人間はいないだろう。その場の全員が心の中で思ったのは本人には秘密である。
生温い視線で見つめてくる熊が一番ウザかった!!と、後にルックは語るかもしれない。





先ほどまで軍主と軍師だけが存在する静かな空間だった執務室に、今は珍しい客人も迎えて大人数が存在していた。
中でも『この部屋に長居はしたくねぇ』と常日頃からぼやいている(この部屋に呼ばれる理由のほとんどが厄介な頼まれごとや説教だから)熊大将が、楽しそうに見つめる先には。
雰囲気は真剣ながらも楽しそうな少女と、雰囲気は嫌々で表情も面倒臭そうな少年が、腰掛けた青年を挟んで対立していた。
腰掛けた青年とはつまり、先ほどリオウの魅力(嘘)に惑わされてうっかり眠らされたシュウである。
少女ナナミはにこにこ笑って額に力を込め、少年ルックはうんざりした様子で右手を掲げた。

「ねむりの風」

「ねむりの風」

ナナミの言葉の後、すぐにルックが同じ言葉を発した。
ほとんどヤケのように素早い呪文の発声と高速と言える効果の発動は、ぶっちゃけ才能の無駄遣いである。

「ねむりの風」

「ねむりの風」

「ねむりの風」

「……まだやるの?」

「念を入れてもう少し! ……あ、リオウはしなくていいから!」

「……ねむりの風」

嫌々な雰囲気を高まらせているルックの様子を見て、すっとリオウが立ち上がろうとして……ナナミに止められていた。
もう色々と諦めたルックはさらに呪文を唱える。

先ほどから、部屋の中には緑色の光が溢れていた。
本来なら攻撃的な輝きを放つことが多いルックの右手と、いつもは苛烈な真紅に輝くナナミの額から柔らかい光が漏れており、それが部屋に満ちる緑色の光の正体だった。

「やっぱりルックにもお願いしてよかった! 私は風の紋章と相性が悪いから、効き目に不安があったんだよね〜!」

ナナミは紋章の使用回数の制限を無視する勢いで技を発動させていた。
レベル1の『ねむりの風』にレベル2〜4までの全勢力を注ぎ込むという、ゲームでは絶対不可能な荒技を駆使しているあたりに彼女の本気が伺える。
そしてルックもそれに付き合わされていた。

「ルックを引き摺ってきたのはそーいう理由だったのか。俺はてっきりまた面白半分に巻き込んだのかと思ってたな」

「俺もだ。案外、ナナミも考えているんだなぁ」

関心している大人の男2人組の横で、副軍師2人組も感心した表情を浮かべていた。
どうやら彼らはそこまで思い至らなかったようである。
しかし、実はナナミが(副軍師組を抜くほどの)天才!?ということではなく、ただ単にこの件に関してナナミの本気度が勝っていたというだけの話だ。

普通なら、一人の人間に対して同じ技を何度も発動させようとはしない。
攻撃魔法なら有り得ることだが、眠り効果の魔法を何度発動させたところで寝ていることには変わりはなく、一度効いてしまえば一定期間の眠りは保障されることは分かっているからだ。
ついでに言えば、ここ最近のシュウの激務を考えれば一度眠らせてしまえば疲れのたまった身体ではしばらく起きないはず……というのが副軍師組の考えであり、実はそれが正しかったのだが。
ナナミはいつも通り色々と本気だった。
額を神秘的な緑に輝かせながら得意げに語った――がしかし、残念なことに見た目はちょっと不気味だった。

「深く眠ればすぐに元気になるってホウアン先生が言ってたの。シュウさんには早く元気になってほしいから、もの凄く深いところまで堕ちて眠ってもらわないと!! ねむりの風〜!!」

「……永眠させるつもり?」

「え、なに? ルック、何か言った?」

「……別に。ねむりの風」

これで何度目かな……そう思いながらルックは呪文を唱え、正しい効果をもった魔法を発動させた。
さきほどの呟きはルックの本心であり、実はこの場で一番正しいツッコミだった。
いくら『ねむりの風』魔法の効果が『眠らせる』ことだとはいえ、魔力の込め方次第では本当に永眠させることは可能だろう。一撃必殺というよりも眠らせ続けて衰弱死させるという方向で。
ナナミの気合いの込め方はハンパなく、それこそ永眠させそうなくらい力を込めているのである。
(シュウにとって)幸運なことに、ナナミの風の紋章への適正が「F」だったおかげで普通の状態レベルの発動に止まっていた。
きっとおそらく、同じ気合いの込め方でルックが紋章を発動させれば、シュウに限らずこの場にいる人間たち全員が永眠に続く眠りを確保させられるに違いない。

「(……それもいいかもしれないな)」

そういえば先ほど『真面目にやってよ!』とナナミに怒られたばかりだ。
真面目も何も、一度かけてしまえばそれで十分な魔法を何度をかけさせるなんて真面目にやってられっか!!というのがルックの言い分だったのだが、もちろんナナミに受け入れられることはなかった。
ここで一発、ナナミを見習ってホント真面目に呪文を唱えちゃおうかな……

「よし! これくらいでいいかな。ルック、もういいよ」

「……」

同盟軍を全停止させるかもしれない最悪の事件は、未遂のままで終わった。
違う意味で哀愁を漂わせはじめたルックに気付くことなく、事態は次の展開に進み始めるのはいつものこと。どんまいルック!
用法用量を超加速で飛び越す勢いで眠りの魔法をかけ続けられたシュウは、すでに寝息すら怪しいくらい静かに静かに寝入っていた。これは1週間くらい寝続けそうな雰囲気だが、天下の鬼軍師が寝てしまって軍師団は大丈夫なのだろうか?

「……これ、大丈夫か?」

「心配ないだろ。「ねむりの風」は眠らせるだけだろ?」

「そうなんだが……」

フリックだけが心配そうにシュウを見つめていた。
今こそ先ほどのルックのツッコミが論じられるべき場面であるが、ルックは未だに軽く放心していた。タイミング悪〜
それほどルックが瞬間的に同盟軍幹部(ていうかこの場にいる奴ら)に抱いた殺意は深かったのだろうか? もしそうなら恐ろしい話だが、この場面では割愛する。
誰も受け取ってくれなかったフリックの心配は虚空に消えた。

「ま、大丈夫か。よし、じゃあ運ぶとしよう。ビクトール、背中に乗せるからそこに屈んでくれ」

「そのまま担げばいいんじゃねーか?」

「こんな感じで」と言うビクトールの動きは、まさしく俵担ぎのジェスチャーだった。

「馬鹿言うな。お前はそれでいいかもしれないが、その体勢はシュウが辛いだろう」

「えー! それはダメだよ! ほらほらビクトールさんは早く屈んで、屈んで!」

「へいへい」


「……」

「ルック、ありがとう」

「……どういたしまして」

騒ぎ出したヤツらを見て、今度こそこの場から消えてやろう(物理的 or 魔術的な意味で)と思っていたルックに、リオウが声をかけた。
キラキラと感謝の籠もる輝く眼差しを向けられて、さすがのルックも素直に言葉を返すしかない。
これも、過去の経験を学んでのことである。エブリディ反抗期のルックに考慮させるとは、なんて姉弟なんだ。
ほのぼの瞬劇を繰り広げていたルックとリオウのそばに、今までの事態を眺めながら執務に精を出していた有能な副軍師組もその手を止めて近づいてきた。

「お疲れのところ、どうもありがとうございました」

「ルック、ありがとう。助かったわ」

「これくらい疲れるほどじゃないよ。それじゃあね」

今度こそ、ルックは光と共に消えた。
それを埋めるかのように、いつもより1.5倍大きくなったビクトールが現れた。
大きくなった原因は暴飲暴食による年代外れの過剰成長ではなく、背中に人間を背負っているからだ。

「よし。俺はこいつを寝かせてくるな」

「あとは俺たちだけで大丈夫だ」

「じゃあな」

フリックが開けたドアを抜け、シュウを背負ったビクトールが廊下に出た。
同じくフリックも退室し、扉を閉めたことでこの部屋もいつもと同じくらいの人口密度に落ち着いた。

「ふぅ、これで大丈夫だね!」

「……」

ナナミがリオウに笑みを向けると、リオウも安心した様子できらりと瞳を輝かせた。
すぐに執務には戻らず共に大柄な男2人を見送っていた副軍師組の一人、柔和な笑みを浮かべたクラウスが安堵の吐息と共に言葉を溢した。

「これでやっとシュウ殿に休みをとっていただけますね」

「うん。私も気合い入れて紋章を使ったし、ルックにも頼んだしね! 最低でも一日は起きないよ」

うんうんと満足げに頷くナナミは達成感で満ちあふれている。
隣でリオウも同じく満足そうな様子であり、その表情は2人が姉弟であることを示すように似通っている。
ナナミと揃って頷きを繰り返していたリオウが、今度は心配そうな表情になってクラウスとアップルを見つめ、言葉少なに今後のことを聞いた。

「大丈夫?」

「はい。決して楽とは言えませんが、兄さんが休んでいる間くらいは私たちでなんとかしてみせます」

「ここ最近、シュウ殿には緊急を要する書類を先にお渡ししていましたので、余程のことが起こらない限り数日は大丈夫ですよ」

決意に満ちた表情を浮かべるアップルの隣で、悪戯を自ら暴露するように茶目っ気の混じる笑みでクラウスが言葉を続けた。
優しい笑顔のことが多いクラウスには、珍しい種類の笑みである。

「そっかー。じゃあ『余程のこと』が起こらないように、みんなで注意しないといけないね!」

リオウもこくこくと頷く。

「それに……ふふ、こうして休んでもらう手筈でしたから、兄さんには少し無理を言って書類を渡してしまいました」

「さすがのシュウ殿も少し疑問に思っていたようでしたね。本日決行されて丁度良いタイミングでした」

「さすが! リオウはよく見てるもんね」

「……うん」

照れ混じりのリオウの頷きに、柔らかな笑みが溢れた、その時。



ココココン!!



バッターン!!



焦ったノック音が響いた直後、叩き割るようにドアが開かれた。

「失礼します! 軍師殿が……ああ! リオウ殿!!」

驚愕を露わにしたフィッチャー登場。
だいぶ急いできたようで、息が荒い。
手に持っている書類を落とさなかったのはさすがだが、紙面にはかなりしわが寄っていた。

「どうかしましたか?」

「どうしたもこうしたもありませんよ!」

聞いてきたアップルに噛みつく勢いでフィッチャーは話し出した。
目的はリオウだったはずだが、質問されたせいでたがが外れたらしい。

「軍師殿が意識不明の重体になって、今まさに生死の境を彷徨ってらっしゃるというのは本当ですか!? 先ほどビクトール殿が背負ってらっしゃるのを見かけたのですが直接聞くのは憚られまして……というより話しかける前にビクトール殿とフリック殿はエレベータに消えてしまったので聞けなかったんですけど!」

「「「……は?」」」

「……?」

呆気に取られた4人を取り残したまま、フィッチャーは怒濤の勢いでまくし立てる。

「なんでも、王国軍が秘密裏に忍び込ませた密偵の仕業らしいですね!? 本当はリオウ殿を狙ってたみたいですけど、シュウ殿の咄嗟の判断のおかげでリオウ殿に怪我はなくその変わりにシュウ殿が敵の毒を受けてしまわれたとか。ほ、ほほほ本当にリオウ殿に傷はないんですか? 体調に変化はありませんか!?」

「……う、うん」

いつもなら無言で頷くだけのところが、熱意に流されるように声付きの返事をしてしまった。
ついでに頷く仕草も結構必死だ。

「そうですか、安心しました。さすが、シュウ殿が我が身を犠牲にして庇われただけありますね! よ! さすが同盟軍きっての広範囲型最強最悪鬼軍師のシュウ殿〜!!」

フィッチャーは腕を振り上げながら飛び上がった。
赤い服にオーバーオールを着たおじさんが空中に浮かぶブロックに対して、笑顔で頭突きをかます様子にソックリだった……と注釈しておこう(効果音はピョイィーーン)
さすがのリオウも目を点にして変な方向に爆走しているフィッチャーを眺めた。
ナナミとアップル、クラウスも同様である。
しかし、見えないブロックを叩き損ねたらしいフィッチャーは、1upきのこはゲット出来なかった様子で意気消沈してしまった。

「それにしてもシュウ殿のご容態が気になります……まさかこんな機会でシュウ殿が就寝中の様子を目にしてしまうとは……嬉しいような悲しいような複雑な心境です。しかし、軍師殿が倒れてしまうとは予想外で恐怖のほうが先に立ちますね……!! それに、鬼と言われるだけあって軍師殿は鬼のように仕事を押しつけてきやがりま……いやいや、頼んで下さいますが、ご自身が鬼も絶叫しそうな程の仕事量をなさっています……その鬼畜生のシュウ軍師が倒れてしまったなんて、どうしましょうこの軍大丈夫なんですか!? 生き残れますか明日はありますでしょうか!?」

「……きゅう」

「ぅわ〜! リオウ、大丈夫?」

フィッチャーに血走った目を向けられたリオウは、許容量以上に向けられた感情に酔ってしまった。そのまま倒れそうなところを、ナナミに支えられた。
聞かされた言葉に呆れていたアップルとクラウスであったが、一足早く立ち直ったクラウスが口を開いた。

「あの、なんのお話ですか?」

「も、もしかしてシュウ殿の穴埋めのためにまた仕事が……ああぁあぁあああ!! こ、これ以上は……これ以上は無理です勘弁して下さいぃぃいいい〜〜!!!」

しかしこの後、フィッチャーを正気に戻すのには数分の問答が必要だった。
シュウに無理をさせてしまった余波がこんなところに来るとは、分かっていたこととはいえフィッチャーの錯乱具合は半端なものではなかった。
どれほど扱き使われたのだろうか、合掌。

ちなみに。
フィッチャーだけ計画を知らされていなかったという悲しい事実に本人が気付いたのは、正気に戻ってさらに後のことである。





「シュウ殿には少し強引に休息をとっていただいています。先ほど眠られたばかりですよ。……その、密偵の件は定かではありませんが、シュウ殿が毒に倒れられたという事実はありません」

「……休息? …………眠り?」

「はい。この部屋で眠ったシュウ殿を、ビクドール殿に運んでいただきました」

「フィッチャーさんはその様子をご覧になったんでしょうね」

「もー! ただのフィッチャーさんの勘違いじゃん。ビックリしたぁ〜。ね、リオウ」

「……(こくん)」

すでにタネも仕掛けも知っている4人は明るい。
しかし、たった今知らされたフィッチャーはというと……

「……」

返事はない。ただの屍のようだ。
フィッチャーはどこかに色を落としたかのように真っ白だった。
さすがにその様子が哀れだったのか、クラウスが(フィッチャーを下界に戻すように)声をかけた。

「えー……、あの、フィッチャー殿はその話をどなたから聞きました?」

ホラ話もあそこまで大きければたいしたもんだろう。しかもあまりにもタイムリーな話である。
さらに、いつもいつもシュウにこき使われているフィッチャーが『軍師殿の眠っている姿を見てみたいもんだゼ』と、愚痴まみれの願望を持っていることも見越した見事な虚言なのだから、その威力の大きさは計り知れない。
フィッチャーは登場時とは正反対に、不気味な沈黙に包まれていたが、呟くように言葉を発した。

「……微笑みを浮かべたルック殿に……」

「ほ、微笑み!?」

「うっそー! ルックって笑えるの!?」

いつもの嘲笑ではなく、微笑み。ほほえみ、微笑。
微笑と言われて思い浮かべるのは、慈愛に溢れた柔らかな笑み(←偏見?)
慈愛の笑みを浮かべるルック……想像がつかない!!

「……」

「……」

苦笑いを浮かべるクラウスと、哀れみの瞳を向けるリオウはすぐに気付いていた。
まさかのルックによる冗談攻撃である。
直接攻撃を受けたフィッチャーは除外するとしても、ルックとの付き合いが長いアップルが実は一番衝撃を受けているのかもしれない。
しかしまぁ、ルックは同盟軍でも群を抜いて分かり易い性格(=キングオブツンデレ)なので、『笑顔』を浮かべることの意味を分からない人間は同盟軍にはいないだろう。
全力投球の嘲笑か、本気でうっかり笑みを浮かべたルックはそのこと全否定!の二択である。

「ルックでも冗談言うんだね〜。フィッチャーさん凄いよ! ルックの冗談聞いたんだから」

「……はは、は……ありがとうございます」

そんな凄さいらない!!誰もが浮かべる感想を荒れ狂わせているフィッチャーだったが、表面に出たのは空笑いと心の籠もらないお礼の言葉だった。
ナナミがどこまでも純粋に賛辞を述べているのが伝わってくるので、人が良い彼はお礼を返すしかなかったのである。

ルックに冗談を言わせるほどの精神状態に持っていったのは、間違いなくこの少女(ナナミ)だろう

真実を知る3人は同じくそう思ったが、そっと口を閉ざしていた。
この世には知らなくても良いコトや、知らない方が良いコトが溢れているのだ。
笑顔でルックの冗談フレーズを聞き出そうとしているナナミと、疲れ果てた表情をしながらもナナミの笑顔につられて少しずつ生気を取り戻し始めたフィッチャーを眺めながら、3人は思っていたのだった。



―― 完?










「……ハッ! シュウ殿がお眠りになったということは……シュウ殿が目覚めるまではどうするおつもりですか?」

「私たちが分担して指揮をすることになっています」

「クラウスさんに軍のことを一任して、私はそれ以外の情報の整理、調整をするつもりです」

「何か起きれば互いに協力する予定ですが、基本的にこの体制ですね。緊急時には部隊長クラスの招集による対応の決定、もしくは最後の切り札である『軍主の一声』を発動させることになります」

相当やる気に満ちた計画プランである。いったいシュウを何日眠らせるつもりなのだろうか。
それ以外と言えば街の現状や改善案、諸国の情勢や対応策、など、探せばいくらでも仕事があふれている。
アップルの表情を見れば『手抜きは一切無し。シュウ兄さんにも認められるくらいの事を成し遂げてみせる!!』という決意が見て取れた。

「そうですか……では私はアップルさんのお手伝いをすればいいわけですね」

いくらフィッチャーが有能とはいえ、これまでに軍事関係に関わったことは少ない。
それに、クラウスにはこれほど大規模ではなかったが、父の軍を纏めていた経験がある。
ついでに言えば、クラウスよりもアップルの仕事の方が膨大になることが予想される……とくれば、おのずとフィッチャーの立ち位置は決まっていた。

「はい。フィッチャーさんもお疲れとは思いますが、よろしくお願いします」

綺麗なお辞儀をするアップルを見て、フィッチャーは少し安堵した。
ここ数日は死の危険を感じずに仕事が出来そうだ、と。
アップルは過去に鬼軍師の指示の荒さに忠言をして、フィッチャーを助けてくれたことがあるのだ。フィッチャーは彼女こそ会議室の女神だと実感していた。
ちょっと感動して異世界に行っているフィッチャーはそのままに、笑みを浮かべたクラウスが席を立った。

「では、私は少しこの場を離れます」

「分かりました」

アップルが返事を返すとクラウスは一瞬笑みを深め、静かに扉の向こうに消えた。

この場に残ったのは女神と部下だ。
アップルは爽やかな笑みを浮かべ、机上に置かれていたカップを手に取った。

「フィッチャーさん」

「はい?」

「これをどうぞ」

「? ありがとうございます」

カップを手に取ったフィッチャーは不思議そうな顔をしつつ、アップルの笑顔に急かされてカップに口を付けた。


「!?」


「全部飲んで下さいね」

「う、ゲホッ! ごほっっ!! な、なんですがごれ!?」

「特製栄養剤です。これから忙しくなりますから、しっかり精をつけて下さいね」

アップルはニコニコと少女らしい笑みを浮かべていた。
しかしこれは大変珍しい表情である。いつも冷静を心がけているアップルには、本当に珍しい種類の笑顔だ。
そして、これこそ変貌の第一歩だった。

「それが飲み終わりましたら、ここに纏めてある情報をもとに調査報告書を作成して下さい。必要な資料は全てあちらの机の上に置いてあるので使用して結構です。その後にこのメモにある方々に辞令を出す手配をしておいてください。辞令によっては少々面倒な手順を踏むことになりますがフィッチャーさんの采配で進めて結構です。しかし詳細の報告は本日中にお願いします。次に、城下町の各所に赴き資料を配付すること。その際、町の人々の様子をつぶさに観察して書類に纏めて提出するように。その後……」

延々と語るアップルの目は書類から離れず、右手はペンを持って高速に動いており、左手は俊敏に資料を捲っていた。
その様子を見て、フィッチャーは悟った。


鬼軍師 の 妹弟子 も 鬼軍師


どうやら彼にはいつも通りの日常しか訪れないらしい。
ちょっとは楽できるかと思っちゃった自分の馬鹿野郎。

この場には鬼の子と万年下僕だけが残っていた。






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