疾風は一人リビングに佇んでいた。
その手には一枚の紙面。


「…………」


それは母から疾風への置き手紙だった。
内容はシンプルに纏められており、友人の通夜に参加するため夫婦で出かける、というものだ。
今夜は帰ってこられないかもしれない、とも書いてある。
そして、祖父も仕事の関係でここ数日家を空けている。
つまり、今日は疾風と孔也の2人で留守番をしていないといけないという訳だ。


「……お留守番よろしくね、3人で仲良くするのよ……て、僕たちを一体いくつだと思ってるんだ……」


追伸に書かれている一言に、疾風は脱力した。
いつまでも母、彩菜は相変わらずのようだ。
しかし悪い気もしないことに気付いていつつ気付かないフリをし続ける疾風は、ポイッと手紙をテーブルの上に戻した。
そして時計を確認してみる。

「(孔也か兄さんが帰ってくるまで時間があるな……)」

手紙には、夕食は家にあるものを使って作っても良いし、何か出前をとってもいいと書いてあった。
作るのも別に構わないが、手塚家にあって出前をとる機会は少ないので、どちらにすべきか迷う。

「(まぁ、どちらかが帰ってきてから決めれば良いか)」

しかし疾風は悩みを容易く放棄した。
無駄な時間を過ごすことは好まない疾風は、悩むことさえ最短を望む。
疾風はスタスタとその場を立ち去ろうとしたが、不意に居間のテレビが目に入った。

「(ん……今はニュースをしてる時間か)」

近くの時計を改めて確認した疾風は、居間に戻って腰掛けた。
疾風はテーブルに肘をついてテレビを見るという、微妙に行儀の悪い姿勢でテレビを見ている。
最近は学校でも微妙な騒動に巻き込まれるようになり、思ったより疲労が溜まっていた。
(身体的にも、精神的にも)
それがこうして小さな場面で出てきているんだろうな、とニュースを見ながら疾風はぼんやりと考えていた。




ピンポーン




ニュースの音を遮るように、呼び鈴が鳴った。
疾風はしばらくじっとしていたが、ハッとしてその場に立ち上がった。

そうだった……今日は家族がいないんだった

いつもなら呼び鈴が鳴れば家族の誰かが出る。
そして家族が居なければなぜか孔也が出る(出さされるとも言う)
それは疾風が無用な人付き合いを極端に嫌がるからであり、疾風がその気持ちを隠さずに人と対面しようとするからだ。
(必要に迫られれば隠せるが、その必要がないなら隠さなくて良いだろうと思っている)
さすがに訪問者に不快な思いをさせるわけにもいかず、手塚家では『呼び鈴鳴っても疾風は呼ぶな』が暗黙の了解となっていたりする。

しかし今は、手塚家にいる人間は疾風のみ

疾風は重い腰を持ち上げ、嫌々な表情を全面に押し出した顔をして歩き出した。
手塚家の美形遺伝子のせいで美しい顔のはずなのに、今はただ恐ろしい形相だ。

「(こんなタイミングで来るなんてどこのどいつだ……)」

もう少しすれば孔也か兄が帰ってきて、己がこうして出なくても良かったのに……
と、イライラとしている模様。



カチャ



「…………!!」

無言でドアを開けた疾風は、即座に不満の表情を驚愕に変えた。
眉間に寄っていたしわは跡形もなく消え去っている。


「ルック……」


か細く己を呼ぶ声が聞こえた。
ドアを開けた目の前には、濡れ鼠になった恵菜が立っている。


「ちょ、何が……いや、とにかく中に入って」


驚きで一瞬固まった疾風だったが、恵菜の声に己を取り戻した。
それでも焦っている内心は変わらず、とりあえず恵菜を玄関内に入れることにした。
ドアの前には小さな水たまりが出来ていた。


「うん……」


疾風の手に導かれるように恵菜はよろよろと歩き出した。
恵菜の背に手を添えていた疾風は、眉をひそめた。
触れた背は冷たく、まるで長い間濡れたまま放置されていたかのようだったから。
色々疑問はあるが、とにかく恵菜の身体を乾かせなければならないと疾風は判断した。


「タオルをとってくるから、そこで待ってて」


そう言って踵を返した疾風の身体はしかし、すぐにつんのめって止まった。


「……」

「……」


疾風の服の裾を掴み、恵菜は黙したまま俯いている。
それは疾風が視線を投げかけても変わらず、むしろ掴む手をさらに強く握りしめた。
ギュッと握られたシャツのすそに、しわが寄っている。


「……どうしたの、ミオ」


いつもの疾風ならここでため息をつきそうなものだが、さすがに様子の違う恵菜の前では堪えた。
絶えず笑みを浮かべ、純真爛漫な常の恵菜の様子とは違い、こうも異常な格好をして俯いているのだから当たり前と言えよう。


「……」


やはり恵菜は無言で立ちつくしている。
とりあえず恵菜が何か言うか手を離してくれるかしない限り疾風には何も出来ない。
静かに目の前の恵菜の様子を窺う。
恵菜は、まるで豪雨の中に立たされた後のように全身がずぶ濡れだ。
長い髪はぴったりと身体を覆い、ぽたぽたと雫を垂らしている。
そして当たり前のように衣服も水浸しで、肌に張り付いているせいでうっすらと中が透けて見えている。


「――!!」


うっかり透けている部分に目を向けてしまった疾風は、すぐに視線をそらした。
その顔は見間違いでも何でもなく赤く染まっている。
(目にしたのが胸元だったのが悪かったらしい)
しかし視線をそらしたせいで目に入ったのは、恵菜のすらりと伸びた足。
白くほっそりとした美しい足は、小さく震えていた。


「……ミオ、そのままじゃ寒いだろ。話は後で聞くから、タオルを取りに行かせて」


疾風が優しい声を出すように(かなり頑張って意識しながら)言った。
言葉と共に裾をを掴む恵菜の手に、そっと己の両手を添えた。
そして優しく外そうと力を込めたら……



「ルックぅ」



恵菜は掠れた声を溢すのと同時に疾風の両手を握りしめ、ギュッと胸元に寄せた。
(手の行方を視線で追ってしまった疾風は、またしても赤面した)
恵菜の瞳は涙か水か分からぬもので潤い、泣く寸前の様相を表している。
力一杯疾風の手を握りしめた恵菜は、必死に疾風を見つめていた。


「ミオ……!」

その手を離してくれ……!!


切実な願いと共に疾風は呟いた。
今や疾風は、全身を熱を駆けめぐるのを感じていた。
ただ恵菜に握られている両手だけがひんやりとしているが、しばらくすれば逆に恵菜の手が温かくなるだろうと思えるほど、熱が回っている。

目の前に立つのは、大切な子。
性が変わってもそれは変わらず、むしろ弱くなってしまった部分は守らねばならないと思っている。
その女の子が全身を濡らし、涙目で見上げてくる。
必死に見つめてくる瞳と視線を合わせていても、目に飛び込んでくる肢体。
少女と女性の中間に位置する危うい色香が、目に焼き付いて……



「っ! ミオ!!」



これ以上はイロイロ危険だと感じた疾風は声を荒げた。
強く言うことになってもいいから、手を離せと言おうとした。
しかし息を吸い込む瞬間を狙って、恵菜が先に口を開いた。





「お風呂とベット、貸してくれない?」





それは甘い声音で囁かれ、疾風の耳に入り込み脳髄を刺激した。






























「――。――、―――」


「――て、―き―」


「おい、疾風!」

突然響いた低い声に、疾風はガバリと身を起こした。
そして俊敏に立ち上がり、そのまま辺りを警戒した。
低く腰を構えいつでも一撃入れられる体勢を整えた疾風は、明らかに混乱していた。


「……。……兄さん?」


少し離れた位置に立つ兄の姿に、疾風は呆気に取られたような表情を浮かべた。
攻撃態勢のまま固まっている。


「何をしてるんだ、お前は……」

「…………」


兄の呆れを含んだ声に、徐々に疾風は思考を取り戻しつつあった。
今立つ場所は、居間の中。
そして自分が先ほど『身を起こした』ということは、座っていて……


「寝てた……?」

「ああ。テレビが点きっぱなしだったぞ」

疲れているなら、部屋で休みなさい


静かに声をかけてくれる兄には悪いが、疾風はまたしても呆然としていた。
自分は寝ていた。
ならば、先ほどのは……


「ゆ、め……」


「今日は誰もいないのか。夕食はどうする?」



「――!!!」



問いかける兄の言葉を聞き流しながら、疾風は豪快に赤面した。
先ほどのは夢だった。
あの、恵菜の姿は、己の頭の中で描き出されたものだったのだ!
夢は願望を表すとは、誰が言っていた?
あのびしょ濡れになって己の手を握った恵菜は、自分の願望?
考えれば考えるほど体中に熱が灯るのを感じた疾風は、咄嗟に思考を一時中断した。
(それでも消しきれずにぐるぐるとまた巡って)


「……疾風?」


「っ、僕は、今日はいらない……、ごめん!!」


驚きに目を丸くする兄を放って、疾風はその場を走り去った。
激レアな疾風の素直な謝罪をいきなり突きつけられた手塚の驚きは相当のものだろう。
(それは日頃刻みっぱなしの眉間のしわが消えるほどに)
しかしそんなこと気にしてられない疾風は、勢いよく自室に飛び込むとガバーッと頭を抱えた。
顔は真っ赤なまま。
ともすれば、手も真っ赤なまま。


僕は……僕は一体どうしてしまったんだぁぁあああああ!!!!


声に出来ぬ疾風の絶叫が内心を吹き荒れた。





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